英語は難しくない!大人のための最短英語学習法

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目や耳が悪いと外国語の勉強はあきらめないといけないのか?

  シュリーマンは、目的のためには決して妥協せず、努力することを厭いませんでした。

しかし、肉体的にはあまり恵まれていなかったようです。

父親のせいで実家が家庭崩壊したため、シュリーマンは大学への進学をあきらめ、14歳で実科学校を出た後、すぐにメクレンブルクの雑貨屋に見習いに入ります。

 


“(前略)この「不運で哀れな地位」を放棄することになったのは、彼がフュルステンベルク にやって来てから五年半過ぎたある日、チコリの樽を運んでいる時に血管破裂を起こした からだ。彼は血を吐いた。重労働に耐えられないということで解雇された。まだ間に合ううち に何とか解放されたと言うべきで、彼が後にある友人に告げたところによると、その頃には 「母国語の読み書きがようやくできるかどうか」という状態だったという。”

(『トロイアの秘宝』pp31-32)

 

そして先ほどのハンブルクでも、再びこの血管破裂に見舞われるのです。
それぞれ、19歳くらいの時のことでした。

シュリーマンは、元々肉体的労働には不向きだったようです。

14歳までしか教育を受けていませんし、その後約5年間勉強らしいこともしていません。
それでも、何とかして頭脳労働者にならなければ生きていけなかったのです。

この「母国語の読み書きがようやくできるかどうか」という話が、知識として読み書きを忘れたのか、肉体的に文字を認識できなくなっていたほど弱っていたことを指すのかわかりかねます。
その後すぐに簿記の勉強を開始したことから、おそらく知識として読み書きを忘れかけていたという意味のようです。

 


“メクレンブルクの小僧時代には胸を病んで喀血し、カリフォルニアではチフスにかかり、 トロイアとミュケナイではマラリアにかかり、パナマ運河では両足に負傷し、四二歳のとき ヤッファ(パレスティナの港町。)で片方の耳の手術をしたことがある。それいらい、友達 などには黙っていたが、日記のなかで耳が痛むと周期的に訴えており、しばしば半ば つんぼだといっている。六二歳のときロンドンで、それは神経の極度の緊張と、過労からく るものだといい渡されている。”

(『発掘者の生涯』p251)

 

頻繁に外国に出かけたことも原因ですが、その後もシュリーマンは怪我や病気に見舞われます。

また、既に20代前半には近視になっていたようです。

そして驚くべきことですが、語学に最も必要だと思われる、耳でさえもあまりよくなかったようです。

42歳で手術ということは、その前から耳がよくなかったわけです。

ちょうど、彼の30代後半は、ギリシア語、ラテン語、アラビア語を学んでいた時期になります。
そして、49歳の時にトルコ語、その後でペルシア語に取り組むのです。

これらは「語学にはいい耳が必要だ」という反証にもなるでしょう。
もしくは、シュリーマンの外国語習得法が耳だけに頼らない手法だということもできます。

なぜなら、彼は20歳以来、語学の勉強方法を一切変えていないからです。

その後、どれほど耳が悪くなったのか、シュリーマンの友人で医者のフィルヒョーが語っています。

 

“シュリーマンの難聴がこうじて、わたしが大きな声で叫んでも、わたしのいうことをわから せることが、ほとんどできなくなったのは、この峠においてであった。やがて彼は耳が痛む と訴えだした。付近の村に到着したのは、夜もかなり遅くなってからだった。

翌朝、わたしは 彼の耳をしらべてみた。ひどく腫れあがっていて、聴道が完全にふさがっているように見え た。残念ながらわたしは外科の器具を持ちあわせていなかったので、それ以上精密にしら べることはできなかった。”

 

 

結局、シュリーマンはフィルヒョーの反対をよそに耳の手術を受けました。
そして、手術のミスあるいは術後の経過がよくない状態で、外を飛び回り、身元不明の外国人としてイタリアで死んでしまうのです。

以上のように、シュリーマンは肉体的には恵まれなかったようです。

私たちも、目や耳が悪くても、それが語学の習得をあきらめる理由にはならないということです。

では、シュリーマンは頭脳的にはどうだったのでしょう。

 


“彼がその最初の手紙以来述べている内容を読めば、明白にそれとは言わないけれど、
言語に対する才能は実に非凡であると誇っている。”

(『トロイアの秘宝』p38)

 

シュリーマンの先祖には商売人や牧師といった頭脳労働者が多かったのです。
後天的にも、シュリーマンの父方は三世代牧師ですし、母親は町長の娘、母方のおじたちも牧師という家庭で育ちました。

自然と勉強をするのが当たり前という環境で幼少を過ごしています。

飛びぬけて勉強ができたというようなこともなかったようですが、11歳の時にはラテン語で作文を書いていたというくらいですから、語学には元々才能があったようです。

ラテン語は牧師であるおじ、あるいはおじの助手か誰かに教わったようです。

この時に受けた語学教育が、シュリーマンの外国語習得法に影響を与えている可能性もあります。

そして、最初の外国語がラテン語だったというのも、彼が独特な勉強法を編み出した理由かもしれません。

というのも、ラテン語は既に当時から日常的には死語であり、普段会話で使うこともないため、もっぱら書き言葉として使われているもののようです。
さらに、かつてローマ帝国の勢力が及んだヨーロッパ全体に広まったため、発音にかなりの地域差があるのだそうです。
そのため、話し手の発音が間違っていたり、異なる方式で発音したりしていても、聞き手は推測して理解するものだそうです。

また、語学とは直接関係ありませんが、計算や会計の能力が高かったことは特筆すべきではないかと考えます。

 


“ところが、アメリカヘの出立の許しは得られず、ハインリッヒは気が進まないままにロストク に落ち着き、難しいと定評のあるシュヴァンベック式「複式簿記」を習得することとなった。
「先生や仲間たちが驚いたことに」他の生徒の四分の一の期間、たった三ヵ月で習得して しまった。”

(『トロイアの秘宝』p32)

 


“計算や勘定は生涯オランダ語でやっていた。アムステルダムではじめて正式に習いおぼ えた関係からである。三桁の掛け算は暗算で即座にできた。”

(『発掘者の生涯』p206)

 

シュリーマンが仕事として会計に取り組んだのは、アムステルダムのB・H・シュレーダー商会で帳簿係になってからですが、それ以前ハンブルクに行く前に、複式簿記をマスターしているのです。

このシュヴァンベック式というのがどんなものかはわかりませんが、普通の複式簿記なら3ヵ月で習得するのは難しくありません。
しかし、直前まで「母国語の読み書きがようやくできるかどうか」だったことを考えると驚異的であると言えます。

この例からも、シュリーマンが何かを学ぶのは目的があったからだと言うことができます。

また、大きな数字の演算を暗算でやってしまうのは、天性のものを訓練で伸ばしたのか、それとも計算術のようなものをマスターしたのかわかりません。

しかし、語彙の習得に記憶術を使っていたという記述もありましたから、何か特殊な計算法のようなものを使っていた可能性もあります。

ところで、この計算能力について特に言及したのは理由があります。

 私の友人の中で、数ヵ国語を操る非常に語学能力が高い人たちがいます。
その何人かに共通しているのが、論理的把握力というべきものです。

たまたま別々の場面で、彼らのうち2人がはじめて韓国語のハングルを教わっている時に居合わせた時があります。

ハングルとはそれまで固有の文字を持たなかった朝鮮語に、15世紀半ば国王の施策で人工的に作成された表音文字です。
そのため、しっかりした規則性があり、説明を受けると「なるほど」と明快に理解できる文字体系なのです。

 

しかし、そのことを知らずにいくつかの単語を表記されても、私のような凡人には全く意味がわかりません。
しかも、漢字やひらがな、アルファベットといった日本人が見慣れた文字ではないのです。

さて、話を友人たちのことに戻しましょう。

1人は30代前半の男性で昼間の喫茶店で仕事の打合せ時、1人は40代後半の男性で夕食を一緒にしている時でした。
どちらの席でもたまたま韓国人が居合わせて、「韓国語に触れてみよう」ということになったのです。

彼らは、韓国語も初めてで、ハングルも初めてでありながら、韓国人の書いた数語のハングルの中からその体系を見抜きました。
そして、逆に教え手の韓国人に質問をしながら、ハングル全てを理解してしまったのです。

さらに、40代男性の方は聴覚があまりよくないのですが、母音の種類まで推測して分類してしまいました。

その過程は2人とも若干異なるのですが、結局ハングルの仕組みを理解し、10分以内に音を聞いてある程度の表記ができるまでになってしまいました。
私は置いてきぼりで、意味もわからないまま黙って座っているしかありませんでした。

これは先に触れた言語学者の数学的能力とも共通しているのかもしれません。

ただし、私たちはシュリーマンのように外国語習得法を開発する必要はなく、せいぜい彼の手法を自分たち用にアレンジするだけでいいのですから、取り立ててこういう能力が必要なわけではありません。

ということで、シュリーマンは元々語学の素質は高かったと思われるものの、いわゆる耳がいいとか発音がうまいなどの能力に秀でていたわけではなかったようです。

むしろ、肉体的には大きなハンディを抱えていました。

可能性として、記憶術をマスターしていたことと、数学的論理的能力が高かったということは言えると思います。