英語は難しくない!大人のための最短英語学習法

忙しい大人のための効率的な英語学習法について書いていきます。

年譜からシュリーマンの歴史を探ってみる

  今までシュリーマンの外国語習得法を見てきました。

その過程で、今まで明らかにされていなかったようなことも整理され、誰でも真似ができる体裁を整えることができました。

そこで次は、なぜシュリーマンがこのような外国語習得法に至ったのかを探ってみましょう。
そうすることで、この外国語習得法が抱える欠点や、補うべきところが見えてくるはずです。

ちょうど、『発掘者の生涯』の 264~265 ページに年譜がありましたので、そのまま転載させてもらいます。

年 譜
一八二二  一月六日、北ドイツのノイブコーで生まれる。

一八三一  母の死。
一八三六~四一(一四歳~一九歳) フュルステンベルクの小売り店で小僧。
一八四一 ハンブルクに行く。難船。
一八四二~四六 (二〇歳~二四歳) アムステルダム。
一八四二  英語、フランス語を学ぶ。
一八四三  オランダ語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語を学ぶ。
一八四四  (二二歳) B・H・シュレーダー商会に入社。ロシア語を学ぶ。
一八四六~六六 (二四歳~四四歳) ペテルスブルク。
一八五〇 カリフォルニアヘ旅行。
一八五一 (二九歳) アメリカ。
一八五二~六八  最初の結婚生活。
一八五四  スウェーデン語、ポーランド語を学ぶ。
一八五四~五六  クリミア戦争。
一八五五  長男誕生。
一八五六  (三四歳) ギリシア語を学ぶ。
一八五八~五九  ラテン語、アラビア語を学ぶ。スウェーデン、イタリア、エジプト、
アテナイヘ旅行。
一八六三  (四一蔵) 閉店。
一八六四~六五  世界漫遊、インド、中国、日本、北米。最初の著書『シナと日本』。
一八六六~七一 (四四歳~四九歳) パリ。考古学を勉強する。
一八六八  (四六歳) ギリシアとトロイアヘ旅行。イタケ発掘。第二著『イタケ、
ペロポネソス、トロイア』。博士号を得る。離婚。
一八六九  (四七歳) アテナイ。第二の結婚。
一八七〇 父の死。
一八七一  長女アンドロマケ誕生。
一八七一~七三 (四九歳~五一歳) トロイア発掘。プリアモスの財宝。第三著『トロイアの 古跡』。
一八七四  ミュケナイにて試掘。トルコとの裁判。
一八七六  (五四歳) ミュケナイ発掘。王族の墳墓。
一八七七  第四著『ミュケナイ』。
一八七八  アガメムノン誕生。
一八七九  (五七歳)フィルヒョーとともにトロイアで発掘。第五著『イリオス』。
一八八〇  オルコメノス発掘。
一八八一  (五九歳) トロイアの発掘品をドイツに寄贈。ベルリン市名誉市民。第六著
『オルコメノス』。
一八八二  (六〇歳)デルプフェルトとともにトロイア発掘。
一八八三  第七著『トロイア』。アンケルスハーゲンを訪れる。
一八八四~八五 (六二歳~六三歳) ティリュンス発掘。
一八八六  第八著『ティリュンス』。アメリカヘの最後の旅。クレタヘ旅行。
一八八六~八七  エジプト旅行。
一八八八  フィルヒョーとともにエジプト旅行。
一八八九  トロイアにて第一回国際考古学会議。
一八九〇  (六八歳) 第二回国際会議。耳の手術。一二月二六日、ナポリにて急死。

19歳以降、一時も休むことなく世界中を飛び回った人生だったということができます。

また、先にシュリーマンが考古学に興味を持ったのは40代半ばから、という記述がありましたが、これを見ると34歳でギリシア語を学んでいます。

もしかすると、この年くらいから、ギリシアに対する想いが明確になってきたのかもしれません。

 

 


シュリーマンはいくつの言語を習得したのか?

この年譜によると、彼がはじめて外国語を学んだのは、20歳の時ということになります。

しかし、13歳までは学校に通っていて、途中で個人教授によりラテン語を勉強して作文までできるようになった経験があります。
この後、49歳の時にトルコ語を覚え、おそらくその後だと思いますが、ペルシア語にも取り組んでいます。

シュリーマンの習得した国語数は諸説ありますが、ここに出てきたものを順番に並べてみましょう。

1.ドイツ語
2.英語
3.フランス語
4.オランダ語
5.スペイン語
6.イタリア語
7.ポルトガル語
8.ロシア語
9.スウェーデン語
10.ポーランド語
11.ギリシア語(現代)
12.ギリシア語(古代)
13.ラテン語
14.アラビア語
15.トルコ語
16.ペルシア語

『トロイアの秘宝』にある22ヵ国語というのが、私の見たシュリーマンがマスターしたという最大の国語数ですが、数が合いません。

これ以上は調べようもないので、シュリーマンが習得した外国語が何ヵ国語かという話はここまでにしておきます。


昔は本を暗記し暗誦出来る人がたくさんいた!その理由は?

もう1つこの年譜からわかるのは、シュリーマンはいろいろな国語を学んだばかりではなく、それ以上の国々を訪れていることです。

これは当時でも異例のことだったようです。

ヨーロッパ人の中でよく旅行をする人でも、せいぜいヨーロッパ近郊のアジア・アフリカ、そしてアメリカ程度が限界だったようです。

資金と時間に余裕があったとはいえ、旅行家でもないシュリーマンのような立場で世界一周をした人はほとんどいなかったと思われます。

当時、客船の発達が目覚ましかったようですが、それでも現代の旅行に比べれば快適さの望めない、時には命がけの旅行だったに違いありません。

さて、この年譜からは、語学の習得法について大した情報は得られません。
しかし、シュリーマンの外国語習得法を探るにあたって、この彼が生きた19世紀について1つ注意すべきことがあります。

 


“一九世紀中頃の人々は教養があるばかりではなかった。好奇心に溢れ、ただの愛好家
に過ぎない人でも最高の知識の獲得を願ったのだ。ホメロスやホラティウスから引用する ことができ、そのうえ、学ぼうとする熱意に溢れてもいた。”
(『トロイアの秘宝』p104)


“教育過程において古典を専門的分野に分類してしまったドイツとは異なり、英国では
依然として古典があらゆる真の学問の基礎であるとされていた。グラッドストンは、当時の 有力政治家としてはギリシア・ラテンに精通している唯一の存在ではなかったのだ。公的 活動を行う多くの人々がプラトンやルクレティウスを読んだり暗唱して楽しんでいたし、 ギリシア古典ではホメロスが偉大な文学者として、また初期ギリシア文化の案内人として 最も深く研究されていた。”

(『トロイアの秘宝』pp215-216)

 

 グラッドストンは、19世紀のイギリスの政治家で、首相を務めたこともある人物です。

つまり、当時の知識人にとって、学問としてあるいは趣味として、ある種の本を部分的にまたは全部を丸覚えしてしまうというのは普通のことであったというのです。

往時、吟遊詩人という職業がありましたし、日本でも平家物語を伝えた琵琶法師たちが存在しました。
今でも重要と考えられる本を丸覚えさせる学校はありますし、シェークスピアを暗記している役者もいます。
各宗教の聖書から自在に引用できる信仰者も数多くいます。

しかし、これらは教育上、職業上または宗教上の理由で行われていることです。

本を丸覚えするというのは決して不可能ではありませんが、19世紀のある種の人々はそれを普通のこととして、楽しみの延長線上でやってしまっていたのです。

なぜ、この時代こういうことを好き好んでやったのかと想像するに、当時は漫画もテレビもゲームもパソコンもなくて、暇だったからだと思います。

日本でも明治維新前後の志士たちの本などを読むと、下級武士の子息たちでも論語などを自由に引用できたという記述が見られるのです。

その後もしばらくは詩を暗誦したり、文学作品を暗誦したりする人が、洋の東西を問わず存在していましたから、やはり「漫画もテレビもゲームもパソコンもなかったから」説は有力だと思います。

ここで私たちが認識を改めなければならないのは、「本を暗記するというのは特別なことではない」ということです。

現代の子供たちは、ゲームのコントローラーを驚くべき速さで操作しますし、パソコンでいろいろな物を作り出す人も多いわけです。

つまり、熱中して時間をかけさえすれば、何でも習熟できるということです。

本を丸暗記することを特別だと思っている限り、決してシュリーマンの真似はできません。

それはゲームをしたり漫画を読んだりするのと、根本的なところでは一緒なのです。